ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第五十話「士官候補生」




 第二の月であるハガルの月の中旬、リシャールはジャン・マルクを伴い、早朝、アーシャにて城を飛び立った。お忍びとのことで見送りは断り、カトレアやマリーとも部屋でいってきますのキスをしての出立である。
「では、手筈通りに頼みます」
「……は、了解であります」
「きゅい……」
「うん、アーシャもよろしくね。
 大事なことだから」
 一度南下してからぐるりと大回りして貰い、ラ・クラルテ村のすぐ近く、領道からそう遠くない場所に降りて貰い、雑木林の中で素早くセーラー服に着替える。無論、本来の意味でのセーラーあるいはセイラー……水兵が着る服であり、特殊な趣味や意味合いはない。本来候補生が着る士官服では遠目にも目立つと、着用を回避していた。
 略冠も含めて脱いだ物を軍用の肩掛け鞄にしまい込み、腰に愛用の鉄杖をぶらさげれば完成だ。
「ご無事のお帰りを願っております」
「ええ、そちらもよろしく願います」
「きゅい」
 最後にアーシャの鼻面を撫で、ジャン・マルクを乗せて飛び立つ彼女を見送ると、リシャールは周囲に人が居ないことを確かめてから領道に出た。
「さて……」
 セルフィーユを出るまでは予定の内でも、流石に今回は我が侭と無茶を言い過ぎたかなとつらつら考えながら、ラ・クラルテとは反対方向のラマディエに向けて歩き出す。
 朝一番の荷馬車には間に合わないが、乗り合わせてしまえば毎日顔を会わせている官吏ならば気付かれても不思議はない。
 市場の行商人やただの村人ならばやりすごせるだろうが、朝一番の荷馬車は通勤馬車なのである。

 昨日のこと。
 思い立ったが吉日とばかりにラ・ラメーとフレンツヒェンを巻き込み、リシャールは出立の準備を始めた。
 無論、二人は共に難色を示していたが、この機会を逃すと後がない。それを理由に押し切り、自分の我が侭半分国の将来半分であると訪問の理由を述べ、フレンツヒェンには秘密の海図のことも話している。
 表向きはお忍びで金策の為トリステイン各地を歴訪、手始めにラ・ヴァリエールへ向かったと偽ることになっていた。不在の真実味を増す為にアーシャとジャン・マルクには実際にラ・ヴァリエールへと訪問して貰う手筈も調えている。使い魔と近衛隊長が居ないなら、誤解もしやすいというものだ。夜中にこっそりととんぼ返りして貰う算段も立てていた。空賊の振りをしたレコン・キスタが現れないとは限らず、アーシャには最悪の場合、セルフィーユを守りカトレアらを逃がして貰わねばならない。
 ついでに借金申し込みに見せかけた使者に御機嫌伺いの手紙のみを持たせ、ツェルプストーとクルデンホルフにも派遣している。トリスタニアの王宮へも、不在だけは知らせる手配だ。
 エルバートには自らが行くことを伏せて、アルビオンからは彼の副官ウォーレン海尉のみを連絡士官として同乗させることに決定し、その手続きも済ませていた。
 リシャールが持っていかないと困りそうな荷物はそれこそ略冠と杖ぐらいだが、済ませておかねばならない手配が多すぎる。他にも自らを偽装すべくフェリシテに頼んで水兵のように髪を短くしたが、こちらの方が大騒動になりかけたのは困りものだった。
 これまでは実家にいる頃からずっと、後ろでくくれるほど長いのは勘弁とだけ注文してハサミを握る相手に任せていたが、もったいないと皆から口を揃えて抗議されたのである。
 必ず長くしなければならないとは決まっていなかったが、トリステインに限らず貴族の男性には髪を長くしている者も多く、ワルド子爵など腰の手前まであるし、義父にしても肩に掛かるほどだ。夏に遊びに来たマリコルヌや空海軍の士官たちのように、髪を短くしている者は空海軍の軍人かその志望者が殆どだった。
 だが、それはまあいい。個人的には物理的に頭が軽くなり、すっきりとした気分さえ引き出している。
 マリーには行ってくるよとだけ口にしたが、もちろんのこと、カトレアには洗いざらい話をした。針の筵とまでは言うまいが、元よりカトレアには言い訳も通じないだろうなと誤魔化すことは諦めている。
 だがいつもと変わらぬ様子で聞いていたカトレアは、嘆息一つでそれを飲み込んだ。怒っているというよりは、しょうがないなあという雰囲気だ。リシャールが包み隠さず話をしていて嘘をついていないことだけは認めた、というところであろうか。
『どうしても、リシャールが行かなければならないの?』
『……うん。
 今を逃すと、もう二度とウェールズには会えないと思うんだ』
『ほんとうは行って欲しくないけど……』
『カトレアに心配させるのは夫として失格だと思うけど、ごめん。
 王様としてもどうかと思ってる。……でも、一生後悔するのは、ちょっと嫌なんだ』
 納得してくれたのかどうかは、正直なところわからない。
 それでもカトレアは、愛情と心配と……色々なものがない交ぜになった表情でリシャールを送り出してくれた。
 ならばあとは、その信頼に応えるだけだ。リシャールは幾度となく自分に言い聞かせた。

 ラ・クラルテ村からラマディエの外れにある空港まではおよそ半刻、考え事をしながら歩くには丁度良かった。
 途中で果物を商いに行く農夫に追いつかれたので、『真新しい銅貨』と引き替えに黒くて小粒のポットベリーを一袋買い求め、朝食代わりに口に入れながら歩く。今の季節、森に近いラエンネックやエライユでは、いちごの親戚である漿果……ベリーの類が豊富である。
 線引きだけがされている市街地の区画を横目に、領道から外れて空港に向かう。道だけは馬車の往来を考えて先に作られていたので、荒野に真新しい道があって灌木の向こうに空港と倉庫が立つという一種異様な光景に見える。ラマディエの旧市街地から眺めれば合間に家々があるのでそうでもないのだが、景観にまで気を配っている余裕はない。水路や市壁が調えばもう少し見栄えも良くなるだろうか。
 そのまま道なりに歩いた空港隣の司令部前で、いつもの哨兵に敬礼をする。
「誰何! ……えっ、陛下!?」
 距離がある分には効果があるようでも、髪型程度の変装では近づけば顔見知りの相手には分かってしまうものらしい。
「しっ!
 ……すまない、今はお忍びだ。
 口外無用はもちろん、騒ぎ立てることのないように」
「は、はい、了解であります」
「おほん……ルイ・ド・ラ・ファーベル候補生であります。
 司令長官ラ・ラメー閣下に着任報告を行う為、司令部へと出頭いたしました」
「ご協力感謝いたします!」
 哨兵の彼は自らの職務に従い、司令部当直士官として詰めていたルイ・アルベールを呼んできた。
「よろしい、ついてこい」
「はい、空尉」
 以前報告を受けていたように、何処かの息が掛かった誰かが空海軍に潜り込んでいる可能性もあったので、出航するまでは割と真面目に気が抜けないのである。
 昨日のうちに大幅な配置換えが発表され、同時に昇進した者も多い。
 『ドラゴン・デュ・テーレ』は独立以前からの水兵と下士官で固められ、不審な者は極力排除されていた。リシャールのことは抜きにしても、秘密港へと出入りすることになる。気を使うのは当然だった。
 昇進ははっきり言えば欺瞞で、特に理由のない配置換えにはもっとも適していた。例えば平の砲員にしかなれない三等水兵が一等上がって二等水兵になれば、主砲の砲手や小砲の砲長に任じることもできる。そこで別の艦に配置を転換するのだ。
 出航の理由も配置換え直後の訓練を見込んだ練習航海と位置づけられ、ラ・ロシェールとの往復後に帰還、今度は交代で『サルセル』も出航することが発表されていた。
「候補生、あちらが現在出航準備中の『ドラゴン・デュ・テーレ』、奥が『サルセル』で両用フリゲートだ」
「はい」
 司令部内は、出航前とあって大人数が押し寄せているかと避けていた。わざわざ顔をさらしに行くことはない。ルイ・アルベールはリシャールを直接『ドラゴン・デュ・テーレ』へと連れていった。
 艦長室には見慣れない顔もあったが、司令部ほどではない。ラ・ラメーは司令長官兼任で、他の艦や地上からの報告も容赦なく届くのである程度は仕方なかった。
「申告します。
 ルイ・ド・ラ・ファーベル候補生、出頭いたしました」
「ラ・ラメーだ。
 よろしい、着任を認める。
 貴様の配属先は『ドラゴン・デュ・テーレ』、当面の間副長預かりとするが、適宜指示を出すことになるので覚悟しておけ」
「了解であります」
「従卒、候補生を士官室に案内してやれ。
 候補生、本艦には見習い士官のたまり場などという贅沢な部屋はないからな、そちらを使え」
「はい、閣下」
「りょ、了解!
 候補生、荷物をお持ちします!」
 流石に話を通していたが、老士官達は見事にリシャールを候補生として扱った。……老いてもおらず士官でもないジュリアンの顔は若干引きつっていたが、まあいいだろうと思うことにする。
 艦長室から出て階段に取り付けば、出航の準備中とあって桟橋との人の行き来は増えていた。
「しばらく面倒かけるけど、よろしく」
「はい、陛下」
「ジュリアン」
「はい?」
「……あー、まずその『陛下』を直そうか。
 さっきみたいに候補生か、ラ・ファーベル候補生で通してくれないとすぐにばれちゃう。
 当分は、人目のあるところでは気を抜かないこと。
 ……頼んだよ?」
「すみません……」
 行き会ったマルスランと敬礼を交わし、リシャールたちは『ドラゴン・デュ・テーレ』へと向かった。
 
「副長! ラ・ファーベル候補生をお連れしました」
「ルイ・ド・ラ・ファーベル候補生であります。
 『ドラゴン・デュ・テーレ』乗り組みを命ぜられました」
「副長のビュシエールだ。話は聞いている」
 『ドラゴン・デュ・テーレ』には慣れたものだが、今は貴賓室装備も外され、代わりに訓練用の予備と称してしこたま積み込まれた風石の樽や、前の航海よりも少ないながら、意図的に艦内から降ろすのを忘れられた補給物資が山を成していた。
 そのまま下層砲甲板の外れ、後楼直下の狭い厨房に案内されてようやく一息着く。
「……陛下、ここならば大丈夫かと思います」
「ええ、向こうに着くまでは大人しくしていますよ。
 出航は明日早朝のまま、変更無しですか?」
「はい、現在のところ予定通りであります。
 ジュリアンを付けますので、何かあれば彼かに申しつけて下さい。
 空海軍には現在ラ・ファーベル候補生以外には一人も候補生はおりませんから、専属だと思って戴いて結構です」
「助かります」
 ラ・ラメーを陸の上の仕事に取られて忙しいのだろう、ビュシエールは敬礼を残してすぐに立ち去った。
 候補生のいない理由は簡単だ。現在のセルフィーユには、適齢の貴族子弟で空海軍を志している者がいないのである。次に誰かが来るなら、操舵の名手ユルバンの次男の孫あたりだろうと言われていたが、彼はまだ九才であった。
 同じ海尉となってしまえば差はないものの、平民出身者は水兵から経験と功績を積んで階級を上げ、下士官となった後に航海士に選抜されて研鑽を積まねばならない。ジュリアンやその他数名は目を掛けられているが、まだまだ先が長かった。
 リシャールにしてみれば、血脈が直接的に影響する魔法の才能と軍指揮官として必要な指揮能力に、相関関係はないように思える。だが後天的な環境要因、例えば人を使うことに慣れていたり、文字や算術を幼少の頃からと学んだりと言った要素ならば多少は絡むとも思えるので、あまり口を出さないようにしていた。
 さて、当面大人しくとは言ったものの、夜間の当直を命ぜられているならばともかく、候補生が昼間から寝ていては外聞が悪い。だからと船内をうろつくのは、もっと悪かった。
「さて、厨房の掃除でもしようか」
「いいんですか?」
 偽装でもあるが、十分な暇つぶしにもなるだろう。ラ・ラメーの側に控えて目立つよりはいい。
 厨房は、本来は主計長直属の下士官である司厨長の仕事だが、乗組員の数が一定しない上に水兵が持ち回りで担当していたから専任の担当者がいなかった。
「一航海でいなくなる候補生が担当するなら、一番迷惑を掛けそうにない仕事だよ」
 自分で作るなら毒味もいらないかなと戸棚を開け、食材や調理器具の在処を確認する。
 仕事を覚えるには、仕事場の掃除をするのが手っ取り早いと昔から決まっていた。
 掃除には部屋を清潔に保ちという役目もあったが、掃除を行うことで物の配置を覚えるという側面もあるのだ。

 昼の内はそのようにして暇を潰していたが、入港中とあって乗組員の大半は上陸を許されており、必要な食事も宿舎の厨房が担当をしていたからこれは仕方がない。
 それでも多少は仕事らしい仕事、士官への茶の用意や積み込みの終わった在庫から予備日を見込んだ百余名の二週間分の配食計画、鍋釜の修理をしていると一日が終わった。
「ジュリアンもおつかれさま。
 こちらも少し休憩にしよう」
「はい、候補生」
 ジュリアンを座らせて、見本を見せるからと慣れた仕草で茶器を用意する。彼は主に艦長従卒として配置に就いていたが、どちらかと言えば士官間の連絡役や本来の水兵仕事に走り回っていることが多いそうで、茶道具の扱いには慣れていなかった。
「単に茶葉を入れてもそれらしい味になるけど、きちんと煎れれば安い茶葉でも美味しく飲めるんだ。
 手順を書き付けにして残しておくから、時々やってみるといいよ」
「ありがとうございます」
「覚えるまでは面倒だけど、回数をこなしてコツを覚えればそうでもないかな。
 後は塩入りにする分、少し濃いめの方が美味しいかも」
 出航は明朝、この分なら慣れない仕事に疲れきることはないかと、厨房を見回す。
 あちらに到着するまでは、候補生らしく見せねばなるまいと、リシャールは気を引き締めた。
 その上で、士官室にすら立ち寄らないように気を付けている。一応は厳選された人選と言えど、万が一間者が潜んでいて、寄港先のラ・ロシェールでこっそりと連絡を付けられては確かめようもない。あちらの部屋は士官だけでなく、仕事上の必要性から水兵の出入りも多かった。厨房にも食事を取りに来る者は出入りするが、老士官達と彼らの息が掛かった古株の水兵によって配慮されている。
 国王の同乗を知るのは、今のところ彼らに加えてジュリアンだけと限っていた。

 翌朝、宛われたハンモックを片付けると、出航の号令を聞きつつもリシャールは甲板に出ることもなく、厨房に篭もって昼食の準備に取りかかっていた。戦列艦では候補生にも休憩室や食堂の役目を果たす士官次室や寝台の付いた四人部屋の個室を宛う余裕もあるが、フリゲートではそうもいかない。
「おはようございます、候補生」
「おはよう、ジュリアン」
 出航初日とあって昼食は八十人分でその内士官用は七人前、百名少々いる全乗組員の分には足りないが、夜直に備えて寝ている者が必ずいるので昼間は大凡この数字になる。
 代わりに厨房で用意する食事は一日四回、但しその内の一回は深夜で、作り置きですらなくビスケットに茶がつく程度であった。用意するこちらは助かるが、食べる方はつらいだろう。持ち回りで週に一、二度は夜直になるから公平と言えば公平だが、どこかしらに無理をさせるのは軍隊に限らない。
「流石に大量だね」
「はい」
 短期の航海と偽っているので、今日の昼は今朝積み込まれた堅くないパンにしなびていない野菜を使った煮物だが、明日明後日からは二度焼きのビスケットに乾物や根菜主体の汁物となる。夕食には水兵にも安酒が支給され、士官には昼食でもワインがグラスに一杯と炙った干し肉にライムを添えた小皿がついた。
 城の厨房に負けない大きな寸胴鍋に刻んだ肉と野菜を放り込んで軽く炒め、清水の樽から柄杓で豪快に水を足す。肉は塩漬けの物を使い、味はジュリアンの舌に合わせておいた。軍人の食事は味付けを濃くしなければならない十分な理由があり、リシャールの舌では薄味になってしまうのだ。
 合間に食器の準備を整えていると、すぐに時間はやってきた。
「上層砲甲板前部砲員、十四名であります」
 あとは各部署の水兵が申告に来るので人数分を汁碗にとりわけて盆に載せ、パンの入った篭を渡していけばいい。合間にジュリアンが幾度も士官室と往復しているが、こちらは取りに来させるわけには行かないので配膳に向かう。
 鍋が空になる頃には、洗い物が届きはじめた。ラ・ロシェールで水の補給が出来ると聞いていたので、多少余計に使えるのはありがたい。
 出航のその日は洗い物、調理、洗い物、調理の繰り返しが三度、気付けば夕暮れはとうに過ぎ去っていた。

 ラ・ロシェールへの到着は翌早朝で、丸一日が補給と休息に充てられたが、リシャールは厨房に隠れるようにしてやり過ごした。厨房の小窓から見えるフネは全てトリステイン空海軍の軍艦だが、姿は見せないにこしたことはない。
 その次の日は買い付けた風石の荷役こそあったが上陸はなく、艦上では訓練が行われ、発射音の代わりに『バーン!』だの『どかーん!』だのと口で叫ぶ砲兵の声が聞こえてくる。
 日中はほぼお決まりの仕事に終始したが、夕刻前、配膳に行ったはずのジュリアンが駆け込んでくると忙しくなった。
「候補生、艦長より命令であります」
 リシャールは姿勢を正した。ジュリアンは少年水兵で士官候補生である『ルイ』よりは下級だが、上官の命令を伝達する場合は命令の発信者に対する礼が優先される。……まあ、厳正に守られているなど聞いたこともなかったが、取り寄せたトリステインの軍法資料にそう書かれていたことだけは間違いない。
「半刻後、トリステイン空海軍司令長官ラ・ラメー大将伯爵閣下他計二名の来客が、当艦を表敬訪問される。
 ラ・ファーベル候補生には給仕を命ずるので、適切を以て事に当たれ。……以上であります。
 それから、こちらをお預かりしております」
 渡された紙片を開けば、話を通しておくので陛下のお立ち会いを願いますればと、短く書かれている。リシャールはふむと頷き、紙片を鍋の下で燃えているコークスにくべた。
「命令、受諾しました。
 ラ・ファーベル候補生はこれより給仕の準備に入ります。
 ……と、ジュリアン、厨房の方は任せるよ。
 準備は出来てるから大丈夫だと思うけど……」
「はい、候補生」
 一応挨拶ぐらいはしておいた方がよいとの、ラ・ラメーの配慮だろう。誰彼構わずアルビオン行きが漏れては困るが、何かあったときのために話を通しておいて損はない相手も存在する。
 リシャールは桶を逆さにして即席の椅子を作り、水を材料に茶杯の錬金を始めた。

 きっかり半刻後、少々艦が騒がしくなると、リシャールは支柱を付けて二段にした盆に茶道具を載せ、司令室へと向かった。艦長室は艦内では唯一個人に与えられている個室だが、二人も客人を入れると艦長は立ち話かベッドの上に座ることになりかねないほどに狭かった。
 長寛訪問とあって司令室前には老士官と、トリステインおよびセルフィーユ両者の衛兵が立っている。
 誰何の後に申告すると、扉は衛兵の手で開けられた。
 司令室には椅子が持ち込まれて海図台にはテーブルクロスが掛けられ、ラ・ラメー艦長と甥のラ・ラメー伯爵、そしてもう一人、トリステイン空海軍の将官が座している。
「失礼します。
 ラ・ファーベル候補生、給仕に参りました」
「うむ、入れ」
 客人側から作法通りに茶杯と、即席の茶菓……砕いたビスケットとナッツを合わせて少しの水で練ってから焼き戻した菓子を配して行く。
「叔父上、しかし本当にアルビオンへと渡られるのですか?」
「うむ。
 この機会を逃すわけにもいかんし、何よりも陛下の仰せだ。
 なに、正面から当たるならともかく、出し抜くだけならそう難しい話でもなかろうよ」
「……口にしたのが叔父上でなければ、正気を疑うところですな」
 それでも多少は呆れているのか、ラ・ラメー伯爵は肩をすくめて深々と椅子に座った。例の海図のことはトリステイン相手でも口に出せないが、ラ・ラメー艦長の猛者ぶりはそれを補って有り余る様子である。
「話は変わりますが、先日セルフィーユより頂戴した散弾砲、少量の生産が決まりました。
 続けて大口径化したものも検討中ですが……」
「開発者からは大きくすれば威力は増すが、重量過多と専有面積の増大で利点よりも欠点が目立つと聞いた。
 訓練や運用法の検討はこっちでも続けているが、あれは嫌がらせになればそれでいいと俺も思う。
 ……発案者であられる『陛下』からは、何か御座いますか?」
 茶杯を配り終えてラ・ラメーの背後に立っていたリシャールは、そうですねと頷いて見せた。
「当初こそ撃墜を目指していましたが、自由に振り回せもしませんし、竜騎士が襲撃しやすい角度と方向に向けておくことで防空担当のメイジ士官が動きやすくなればそれでいいかなと、今は思っています」
 ラ・ラメー伯爵はぽかんと口を開け、隣の将官がぎょっとして目を見開いている。
 こっちのラ・ラメー艦長は、してやったりと涼しい顔だ。リシャールは多少申し訳なく思い、頭を掻いて見せた。
 無論、その後に話し合われた内容は極々真面目でなおかつ重い内容であったが……艦長は、もしかしてこれがやりたい為だけに、もっともらしい理由をひねり出したのではないかと疑うに十分であった。

 寄港二日目にあたるその日の深夜、夜間緊急出航の訓練を行うとしてトリステインの艦隊司令部から内密に許可を得ていた『ドラゴン・デュ・テーレ』は、堂々と、そしてこっそりと出航した。




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