それは時折突風の吹く、春の初めの一夜のことだった。




「……六、七、八、九……百」

 最後の一枚を万年床の煎餅布団に置くと、横島忠夫は思わず体を後ろに退かせた。

「本当にある」

 そう、確かにあるのだ、一万円札が煎餅布団を埋め尽くさんほどに。それも百枚。
 つまり百万円が。

 頬を抓った痛みで、その事実を確認した次の瞬間、煎餅布団に広げた一万円札を集め、再び数えなおし始めていた。
 横島忠夫は何度確かめても信じられなかったのだ。自分の部屋に百万円があるなんて。

「……六、七、八、九…… 百。本当にある」

 さっきと一言一句同じ台詞。
 横島も、百万円自体なら何度も見たことがある。それどころか億単位の現金ですら見たことがある。だがそれはあくまで美神令子の物。それに対して、目の前の百万円は自分の物。気分は決定的に違う。他人の物であれば、羨望やら嫉妬やらあるにせよ、その存在を疑うことはない。が、自分の物として百万円が手元にあるということは、

「信じられん」

 ことなのである。

 数日前、晴れて高校も卒業し、四月からは正式に美神除霊事務所所員に決まった俺への卒業祝い、そして就職祝いがこの百万円である。
 誰がくれたか。
 美神である。
 美智恵ではなく、その娘の方。ひのめでもなく、長女の方。
 美神令子である。
 三日三晩ぶっ続けの除霊という、とんでもない対価を支払ったような気もするが、それはそれ。

 ――わざわざ、あの美神さんがお祝いをくれるということは、俺の人生にもいよいよ春が近付いてきたらしい。

 横島忠夫は、そんな都合のいい妄想も抱いていた。が、心の片隅に抱いていただけである。
 心の大半を占めていたのは、この百万円をどうするかという当面の贅沢な悩み。
 さて、何に使うべきか。

 ――情報化社会に向けてパソコンでも買うか。いやいや、四月からは社会人。いつまでもこんな格好をしているわけにもいくまい。スーツでも買うか。あるいは、いままで食べたとの無いような高級料理を食べに行ったり、豪勢に卒業旅行なんてのいいかもしれない。
ちょっと待て、百万円あるってことは、わざわざその手のビデオをレンタルせずに、買えるんじゃないか? それも、山のように。なんという心の贅沢! なんという豊潤な人生! 福沢諭吉バンザイ!

 福沢諭吉もこんな風に称えられても嬉しくも何ともないだろうが、とにかく横島忠夫は百万円という金額に希望を抱いていた。それと、同時に、なんとも言えない居心地の悪さも覚えていた。
 この金の匂いのしない、ボロアパートにことあろうに札束がある。ミスマッチであるし、不安でもある。

「どこに置けばいいんだ、これ?」

 神棚か仏壇にでもあげたいものだが、ボロアパートにそんな気の利いた物は無し。金庫なんて便利な物も、もちろん無い。かといって下手なところに置けば、盗まれるかもしれない。
 いや、誰か客が来たらどうする?
 痴話喧嘩で独り身になった雪之丞が、飯を強奪しに来るかもしれない。
 マリアの充電用の電気代も払えなくなったカオスが、変な物を売りつけに来るかもしれない。
 仕事でドジって、エミさんに追い出されたタイガーが夜露をしのぎに、来るかもしれない。
 教会の窮状と、神父の前線の北上をピートが愚痴りに、来るかもしれない。
 いやいや、部下への度重なるセクハラで懲戒免職、なんだかんだで無一文になった西条が来るかもしれない。最初と最後は、ここに来ないのなら、ちょっとなってて欲しいな。
 そんな連中が来て、この百万円を見たらどう思うか。いや、百万円がどうなるか。無事で済むはずはあるまい。
 失礼にも程がある横島の妄想だが、疑心暗鬼の横島には切実な問題なのである。下手なところには仕舞えない。

「冷蔵庫……いや、なにも入っとらんしなぁ、開けられたら即アウトか。やっぱりガムテープで腹にでも巻きつけとくか」

 腕を組み、テーブルの上に鎮座した、百人の福沢諭吉を睨みつつブツブツと呟きながら、横島の思考は続く。

 ゴトリ

 物音がした。いや、物音がしたような気がした。慌てて、カーテンの外を眺める。人っ子一人いない。
 ひとまず、安堵の溜め息を漏らす。
 次いで、鍵を空け、ドアの外。
 そこにも人っ子一人いなかった。そう、人間は。
 そこにいたのは、プカプカと宙に浮かぶ、メキシカンな帽子、唐草模様のマント、そしてマントと揃いのがま口。

『お前、何しとるんや』

 貧乏神であった。

「……いや、木の芽時だから、見回りをだな。そ、そういや、小鳩ちゃんはまだ帰ってこないのか?」

 矛先を避けようと彼の同居人である小鳩について話を振ってみる。

『まだ、バイトや。なんや、怪しいなぁ』

 が、いかんせん言葉とは裏腹に態度は挙動不審な横島。当然のように貧乏神は怪しむ。
 貧乏神が鼻をヒクヒクと動かせ、ニィと笑った。

「指から慣れん匂い……させとるな」

 なるほど、何度も数えなおしている内に、紙幣の匂いが微かについてしまったのだろう。それを見逃さないあたりさすがは貧乏神と言うべきだろう。
 その言葉に固まったのがまずかった。次の瞬間、貧乏神は信じられないぐらいのスピードで、部屋に侵入、テーブルの上の札束を引っ手繰り、室外へと逃亡していった。

「……テメーッ、待てや、コラァァッ」

 ようやくフリーズ状態から抜け出し、横島も貧乏神が空けていった窓から、飛び出し、そして思い出した。

 自分の部屋が二階であったことを。

「ノッワァァァッ!?」
『ハッハッハッ、間抜けー』

 近隣住民の安眠を妨げるような、奇声が夜の街に木霊した。







 横島は毎度のごとく、ダメージからあっさりと立ち直ると、貧乏神の追跡を開始していた。

「ふふふ、金銭欲も立派な人の欲望。ならば……目覚めろ俺の煩悩!」

 自給二五〇円の薄給に甘んじてきたとはいえ、横島も師匠の未来を前知魔に売り渡そうとする程度には金が好きである。それに、百万円があれば買えるビデオを考えれば、彼の煩悩が燃え上がらないわけはない。

 そんなわけで、燃え盛る煩悩を元に、湯水のように生成した文珠を駆使し、横島は、あっという間に貧乏神に追いついていた。
 頬には紅葉、街には覗きとの通報を受けた警官が出回るなど、多少の被害は出たが、それよりも、悪逆極まるあの貧乏神を成敗することが先決。大儀を果たしうる煩悩を補充するためには、犠牲も仕方ないことだったのだ。
 そんな、無理矢理な理屈を胸に抱いた横島は、既に貧乏神をその視界に捉えていた。

「くらえっ」

 “弾”の文字を込めた文珠が横島の指から弾かれ、その時吹いた突風にも負けずに、貧乏神の背中へと迫っていく。

『ッの、ボケェェ』

 が、さすがと言うべきか、意外と言うべきか、貧乏神は錐揉みに回避した。

『アホォ、当たったたらどうするんや』
「はぁ? 命中して、お前が痛がる。そして、ボコボコにして退治する。単純な…ことだろっ」

 横島は言いながらも、文珠を三つ生成していた。女子大生の太股バンザイである。
 そして、それぞれに違う意味を与え、貧乏神に放つ。
 まずは“弾”。再びかわされたものの、回避の連続で、貧乏神の体勢が崩れる。続いて、“網”。貧乏神の真上に、網が出現し、落下していく。

『せやけど、まだ、避けられるわっ』

 貧乏神が勝ち誇った笑みを浮かべ加速し、網の及ぶ範囲が逃れようとした、まさにその瞬間、最後の文珠が放たれ、そして網が拡大される。

『な、なんやて?』

 最後に放たれた文珠の文字は“広”。その文字と使い主の意図に忠実に、“網”の範囲を広げ、貧乏神を絡めとり、地面に落下させた。

『こ、こんなことでっ、諦めへんで。こんなことで』

 “網”を抜け出そうと這いもがく貧乏神。しかし、彼の頭を横島が鷲掴みにし、

「つっかまえった」

 横島の追撃戦が終了した。

「さて、と。泥棒の報い受けてもらおうか?」
『フ、フフフ。やっていいんか?』
「なに言ってやがる? 追い詰められておかしくなったのか?」
『前にわいを殴ったときどうなった?』

 横島は絶句した。たしかに、あのとき貧乏神は、自分の“栄光の手”を受け、その力で巨大化し、厄を増してしまった。しかし、今は、

「で、でもお前は福の神になったんだろ!? なら、貧乏神の時とは違うはずじゃねーか!?」
『かもしれんなぁ? でも、今のわいを叩いたらどうなるかわからんで? それでも、叩くんか?』
「大体、お前、福の神になったんだろう。それなら、借金ぐらいなんとかしろ」
『だからなんとかするんやないか。この、ありがたくも降って湧いた百万円で』
「テメエッ」
『おおっ、なんや。やるんか? なら、やってみい! ただ、小鳩は泣くやろうなぁ』

 盗人猛々しいにも程があるのだが、たしかに貧乏神の言う通り。小鳩に恨まれるのはイヤだし、泣かせるようなことをするのも御免である。福の神の除霊方法なんて、知らない。そもそも、そんな依頼があるとすら考えたことが無かった。だが、現実として福の神が目の前にいて、その相手に自分は手を出せない。標的は、この手の中なのに、何もできないとは。ならば一体なんのために、貧乏神を追ってきたのか。一体、なんのために――なんのために?

「あれ、なんだ?」
『へっ?』

 突如、余所見をした横島につられて、あらぬ方向を見た貧乏神。意識がおろそかになり、隙が出来る。そして、その隙に乗じて、

「へっへ。返してもらったぜ」

 貧乏神の手中から、札束を奪った。

『あっ? ああっ?』

 そう、何も退治することはなかったのだ。そもそもの目的は、札束の奪還だったのだから。

「さて、と。返すものも返してもらったし、帰るとするかぁ」
『返せッ、それはわいのや』

 貧乏神の両手が、札束を掴む。当然、横島も咄嗟に握り返す。貧乏神の手が動き、輪ゴムが指で弾かれ飛んでいく。

「なに言ってやがる、オメーは」

 程なく、端と端を持った、指と指の力比べが始まった。
 それは熾烈で切実な戦いであった。それは過酷で悲壮な戦いであった。ついでに言えば、霊感のない人間から見れば、札束を血管も切れよとばかりに全力で摘む少年が一人、という異様な光景を見せる戦いであった。
 頬を汗が伝い、力と刹那の呼吸の駆け引きと、二人の視線が真正面からぶつかり合う。その激闘に、一番上の紙幣の諭吉の顔も、歪む。偉人も大変だ。
 そして、どんな勝負にも決着が着くように、この戦いにも終わりはやってきた。

「ぬりゃぁぁっ」
『しもたっ』

 横島の叫び声と共に、貧乏神の指から札束が勢い良く引き抜かれていく。

 ――勝った。

 と、横島が思う暇はなかった。
 勢いが良すぎたのである。
 突然、抵抗する力を無くした、横島の指は、手は、体は、バランスを崩した。投げる対象が小さすぎたが、それはジャーマンスープレックスのような形であった。それも、投げっぱなし。そしてこの時、投げられたのは、福沢諭吉百人。お札の肖像画も楽ではない。
 ともあれ、諭吉百人は地面に散らばってしまった。それを横島は捻転し、貧乏神は降下し、拾い集めにかかろうとした瞬間だった。

 そう、これは時折突風の吹く、春の初めの一夜のことだった。

 諭吉が、夢が、希望が、強風に煽られ、宙に舞い、二人の下から去っていく。
 横島が叫んでも、貧乏神が飛んで手を伸ばしても、風に舞い踊る札束は、一枚たりとて彼等の思うままにはならなかった。

 突風は尚もやまず、都会の街に春の訪れを告げていた。
 ただし、横島忠夫の春が近いかどうかは、定かではない。